天界のことを知って早14年、
本格的に天界の遣い人を目指して11年が経とうとしています。
その間、天界について学ぶビフォアアフターを検証すべく、自分の人生で繰り広げられた数々の実体験というか実証実験があるわけですが、その多くは、天界の遣い人としての道を志せば志すほど厳しいもの(天界のことを知る前とは世界と言うかレベルの全く異なる厳しさ)だったように感じます。。
天界の師は、良い時もそうでない時も、天界の光を注いでくださいますが、
今でもまだまだ半人前ですが、
正直、天界の遣い人を目指し始めたころは、辛いことなのに、天界の光を注ぐだけで何が変わるのか、憤りを感じた時もありました。。
その頃には、すでに知識は多少あったと思いますし、天界の光の効果の実感も確かにあり、本当に素晴らしい世界を多くの方々に知って頂きたいと心から思っておりました。
しかしひとたび辛すぎることがあると、ふてくされがちで、後から天界に謝るという感じでした。
ですから、きっと、この度の様々な災害も、東日本大震災の時も、遠くから天界の光を注ぐというのは、当事者にとってみたら、少々クールに映ったかもしれません。。
どちらかというと、クールというよりドライに近いのかもしれないと今では感じますが、最近ようやく、実感を伴って天界の光の効果について本当に理解できてきたような気がしています。
天界の師がどんな時でも天界の光を注いでくださった理由、そして、私自身も注がせて頂いた理由、
それは、生きとし生けるものすべてがこの天界からスタートし、魂の意志を持ち、地上での計画その内なる天界の記憶を宿して地上に降りてきた私たち地上の者に、天界の光で忘れがちになってしまう真の目的を思い出させ、また、軌道を修正するため。
そのために必要なことだったのです。
そして、自分で気が付き、受け止めることができたとき、覚悟を決めたとき、はじめて、問題が解決していくのです。。
自分の問題は自分を措いては解決できない、だからこそ、内なる天界を持つ私たち生きとし生けるものすべてに天界の光を注いで働きかけその魂の記憶を呼び覚ます、ということでしょう。。
年を重ねていく毎に、天界学の奥深さと天界の光の効果の真理を思い知らされる今日この頃、途中若干の葛藤や少々のことはありますが、普段からの心がけが良ければ、天界の光で、必ず良い方向に早く導かれることは確信しています。。
そういえば、天界のセラピーにたどり着く方は、私もそうでしたが、どん底から少し浮上した時に気が付かれることが多いように感じます。確か、天界の師もそのようなことをおっしゃっていたような。。
実体験として、どん底の時は、やはり天界などではなくなるのかもしれません。。
それが、だんだんと辛い時でも半ばあきらめという形で天界を信じることができるようにようになり、感謝もできるようになる・・・
そして、それが喜びにでもなったら、もう人間卒業なのかしら・・・??
辛いことが喜びになんかなれるのかなる必要があるのかわかりませんが、
どんな時でも天界を「信じる」ことって、究極のお試しで、難しいけれど、その壁を乗り越えられたら強くなった分楽になっていく、天界とはそういうものなのかもしれません。。
ちなみに、注がれる真の天界の光には、自我や念といった余計なものは入らないようにし、その人その人の魂の癖的傾向や魂のレベルなどによって天界だと思っても実は天界ではない世界につながっている場合も少なくないため、正しく天界につながるように気をつける必要があります。。
きっと、この地球は、究極、天界のことを知るものが天界の光を注がなかったとしても自浄作用としてバランスを取りながら、良い方向に必ず進んで行くのでしょう。。
けれど、それには、相当な自然淘汰が必要になってくるのかもしれません、(地球の先住民である精霊たちからみても)現状の人間の酷すぎる所業のままでは。。
幸いにも、わずかながらでも、心ある善良な方々の善良な行いと、天界のことを知っている方々の天界の光を注ぐ行いが、わずかな角度でもずらして小惑星の地球衝突を防ぐように、最善に向かうための地上の淘汰リスクも最悪の道は免れているように感じます。。
Timshel!