Timshelの日記

日々のこと、世間話

天界は身近に

所用で再訪した山梨県立美術館所蔵の目玉ジャン・フランソワ・ミレーの「種をまく人」は、改めて奥が深い作品であることに気づきました。。

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ミレーの常設展開催中

山梨県立美術館は近代美術館として1978年の文化の日に開館したそうですが、私が物心ついたころ、父に初めて連れて行ってもらって以来、別世界のような特別なとっておきの場所としてとても魅力を感じていました。

学生の頃は、クールベなど写実主義や美術館所蔵のコローやドービニーなどを意識して油彩で風景画を試みたり、

学芸員資格を取るために、東京の王子の紙の博物館とともに博物館実習生としてお世話になった美術館でした。

その頃すでに山梨県立美術館は、山梨県の公立学校の美術の教員が学芸員として勤められるとのことで、今でもそうとのことで改めてうらやましい限りです。。

が、なぜ、ミレーなどバルビゾン派という大変地味な作品をメインにコレクションしているのか正直魅力がわかりませんでした。

大都市パリ近郊の、フォンテヌブローの森に隣接しているバルビゾン村に、同じく大都市東京の隣の自然多き山梨を重ね、葡萄の産地でもあるフランスとの共通点を見出したからだったのか。。

もしや山梨が不毛な土地が多く米じゃなくて「麦(小麦Wheat)」栽培で聖書とミレーの代表作「種をまく人」との奥深いつながりに山梨も共通すると思ったからでしょうか??!

いずれにしても、大変信心深かったミレーが、フランスの農民たちの種をまく姿にジーザスが例えた種まきの教訓を重ねて?感銘を受け、「種をまく人」を描いたということ、

その種まきの例え話は、天界からのメッセージであったこと、

そして、ミレーが、また、彼の作品を通して山梨県立美術館が、いや、山梨が?!天界の最高峰のマスターであるイエス・キリストと、天界と、深いつながりがあったなんて、

なんと灯台下暗しだったのでしょう。。

 

「見ているが見ていない」というジーザスの言葉が刺さります。。

ほんとに、何十年も前から見ていた絵だったのに、今になって気づくとは。。

興味と関心の有無もあるでしょうが、やはり、ようやく天界の真実を知ることを、聖書のジーザスいわく、少しは「許して」もらえるようになってきたということでしょうか。。改めて大いなる気づきを心より感謝いたします!

 

 新約聖書マタイによる福音書13章1~23節

ジーザスによる種まきの例え話(出典 国際ギデオン協会新約聖書)は、

下記アメブロ記事↓↓↓

ameblo.jp

に掲載させて頂きましたが、

天界の視点からの本当の意味は、

 

ジーザスが弟子たちの問いに答えて)

「天界のことに気づいたあなたがたには、天界の真実を知ることが許されているが、そうではない人たちには(理解するにはまだ難しく)許されていない。

大方、天界に気づいた人は天界から降り注がれる最高最善のメッセージを受け取ることができて魂は満たされるが、天界に気づかない、あるいは気づく気持ちのない人は、本来誰もが持っている、天界の真実を見る目は閉じられ、天界からの最高最善の導きを受け取る能力も退化してしまうだろう。

だからそのような天界の真実をダイレクトに伝えてもピンとこない人々には身近な例えで語るのである。

彼らは(イザヤの預言のように)、見ても(本当のことを)見ず、聞いても(本当のことを)聞かず、天界のサインに気づいて本当の意味が身をもってわからないからである。

こうして預言者イザヤの預言は、天界の大いなる計画のもとに、彼らが成し遂げたのである。

ジーザスは、旧約聖書イザヤ書のイザヤの言葉を引用していわく)

『あなたがたは聞くには聞くが、決して気づいて悟らない。見るには見るが、決して認識しない。この民の魂は曇り、天界の言葉が聞こえにくく、天界の目は閉じている。それは、彼らが天界の目で見ず、天界の耳で聞かず、天界の心で悟らず、自らを内観して気づき解放し癒されることがないためである』。

しかし、天界を知り、感謝を持って謙虚に生きるあなたがたの天界の目は開き、天界の耳が開いているので幸いである。

そのあなたがたによく言っておく。多くの精神世界に通ずるスピリチュアリストや正義を重んじる善良な人は、あなたがたの見ている天界の視点からの世界を見ようと熱心に願ってもなかなか見えず、またあなた方の聞いている天界からの最高最善のメッセージを聞こうとしても聞けない。

そこで、種まきの例えを聞きなさい。

誰でも、天界のサインに気づかず目先のことばかりに囚われていると、(思うつぼの)ルシファーが来て、その人の天界の資質(種)を奪いとってしまう。

道ばたにまかれ鳥に食べられたものというのは、そういう人のことである。

土の薄い石地にまかれたものというのは、天界の言葉を聞くと、すぐに喜んで受容する人のことである。

石に根を下ろせないように、根づいていないので、しばらく天界を信じ受け入れても、天界の最高最善の助言が自分にとって心地のよくないものや、天界からの手荒なお試しがあると、すぐつまずいてしまう。

また、いばらの中にまかれたものとは、天界の言葉を聞くけれど、その前途で、世間体と富の誘惑に勝てず、いばら(誘惑)にふさがれて実を結ばなくなる人のことである。

また、良い地にまかれたものとは、天界の言葉に謙虚に耳を傾け悟る人のことであって、そういう人が実を結び、(自分の心がけ次第で)百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。

 

 

つまり、

私たち人間誰しもが本来持っている天界の真実を知る資質である「種」は、

自分の意志次第でどのような場所にも着地できる。

種の着地した場所は、同じ資質を活かせた人とそうではない人のメタファーではないでしょうか。。

私たちは常に試されているんですね。。

 

ミレーは、他にも、「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」などよく描いたテーマがあったそうですが、ジーザスが人間を導く天界の最高峰のマスターであることを知っていて、天界の真実に気づいていた人だったのでしょう。。素晴らしい。。

ミレーの描く天界のメッセージがちりばめられた絵の、本当の魅力を改めて知りました。。

 

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天界のメッセージがちりばめられたミレーの傑作「種をまく人」山梨県立美術館蔵

「種をまく人」の種は、天界の本当の意味は、人間の資質、天界から生まれた誰もが持つ天界の資質なのだと感じます。

誰しも、天界の心を持ち(もつ権利があっても使う、使えるかは自由)天界を知る権利、天界を目指せる資質を持っていると言えましょう。

だから、種をまく人は、天界であり、

天界の下ではすべて等しく、

等しく資質を持った人間たちは、

自分の自由意志でその天界の資質を活かすことも無にすることもできる。

となれば、誰しも、良い地にまかれた種になりたいですよね。。願わくば私も。。

 

そして作者ミレー自身も、もちろん、「良い地にまかれた種」だった、

あるいはそうなりたいと願った天界の遣い人だったのかもしれません。。

 

ミレーの種をまく人の絵はボストン美術館にもありますが、

最初に描かれたのがボストンに、そして二作目が山梨だそうです。

この違いに構図が挙げられていたりしますが、

恐れながら、私が感じるのは、一作目は、種をまく人の人間自体を描いたようで、

二度目に描かれたものは、種をまく人のまく種、まかれる種にメインを換え、種をまく人間は畑に同化し、むしろ、その個性をなくし、自我をもなくした天界の一部となったメタファー、象徴化した悟りの絵となった感じがします。

そうなるとかなり深い・・・ですね・・・。

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天界からのメッセージはいかに私たちの日常にちりばめられているか、

天界はかくも身近に存在し、無償の愛を降り注いでいます。

そのことにどれだけ気づき悟ることができるかは私たち人間次第であると、

このミレーの「種をまく人」は、見る人にずっと訴えかけていたんですねー。。

まさに「天界は畑の中」にある・・・

 

でも、その本当の意味に気づき、珠玉の作品と心から感じる方は、そう多くはないかもしれません。。

天界の真実に気づかれた、ライトワーカーの方々は、ぜひ、よかったら、山梨へお越しの際に、ミレーの「種をまく人」を観てみてください。。

 

Timshel!

 


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